マグマの音楽はヒトラー崇拝?

ここ数年、音楽と言えばジャズばかりを聴いてきたのだが、去年の前半ぐらいから、徐々にロックを再び聴くようになってきた。ジャズでは考えられないようなコードチェンジや、アレンジ・楽器の使用法がが改めて新鮮に聞こえたからである。特にこれまで手を出そうとしなかった、御三家以外のプログレに徐々に手を出し始めた。去年の前半はカンとマグマを、年末はゴングをよく聞いていた。

で、そのマグマの創始者であるクリスチャン・ヴァンデがいま2chでちょっとした話題となっている。彼は実はナチと第三帝国の崇拝者であり、独自の想像言語コバイア語で歌われる歌詞も、ヒトラーの演説を音韻的に模倣したものであるというのである。たとえば、代表作の一つである、MDKの"Fuhl mehn Fuhl ehndoh litaah"が"für mein Führer Adolf Hitler"の音韻的模倣であるという具合に。

http://jfk.2ch.net/test/read.cgi/progre/1243566397/250-450

このスレでは海外のフォーラムも参照とされていて、海外ではかなり議論されているようだ。何でも近年のコンサートでは、コンサート後のバーでクリスチャンが酔った勢いで黒人差別発言を繰り返していたのを何人ものファンが目撃したのだという。

かなり奇妙な話だ。マグマ結成のきっかけはコルトレーンの死だったと語り、オーティス・レディングに捧げる曲まで作り自ら歌っていたのは、他ならぬクリスチャンであったはずなのに。エルヴィン・ジョーンズを敬愛していたはずの彼が、本音では黒人差別主義者だったというのか。それとも、人種論から導き出された結論だというのだろうか。

また、どうやら聴くところによれば妻であるステラ・ヴァンデ(近年はステラ・リノンと名乗っているらしい)はユダヤ人であるという。そのほかにも、歴代メンバーにはユダヤ人がいるそうだ。いったいこの論理的な矛盾は何か?

しかし考えてみれば、マグマが題材としてきたような神話の世界は、本来的には論理で構築された世界とは一線を画すものだ。そこでは論理的な破綻や矛盾、背徳や理不尽が奇妙に同化して、スペクタクルを織りなしている。ヒトラー第三帝国が持つ神秘主義や奇妙な理論に魅惑を感じる者はオカルト者には少なくないが、クリスチャン・ヴァンデのヒトラー崇拝の源泉もそこにあったのではないか。ゴングのデヴィッド・アレンも「Magick Brother」のMagicをMagickと綴ることでアレイスター・クロウリーへのリスペクトを見せたように。

こうした目で見てみれば、論理一貫しないことで一貫しているという、ある種パラノイアとしか思えない、アクロバティックなまでの雑種性が、実はマグマの神話的音楽の源泉だったのではないかという気なでしてくる。しかしされとて、疑問は尽きない。

ちなみに、大里俊晴氏はマグマのことを「クリスチャン・ヴァンデがファシストだから嫌いだ」と言っていたのを思い出した。彼がファシストであることは、かなり昔から言われていたことらしい。

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大里俊晴氏追悼イベントに行ってきた

本日1月9日に、関内・馬車道にて大里俊晴氏追悼イベントがあったので行ってきた。

イベントのメインはトークショーで、いろいろとエピソードが語られたのだが、会場が残響の強いところで、話の半分ぐらいしか聞こえなかったのが残念だった。生前、大里さんからちょくちょく話を聞いていた細川周平氏を初めて見かけた。師匠である塚原先生も少ししゃべっていた。トークショーでは大里さんが生前授業のネタによく使っていた、Alvin Lucierの「I'm sitting in the room」(文章の朗読を何度も空中ダビングしていくとどうなるかという現代音楽)も流していた。

後半には2008年に新潟で行った大里さんの演奏のビデオを上映していた。以前、1度だけ大里さんの演奏を見かけたことがあるが、そのときはあそこまで激しい演奏ではなかった。やっていることは、ギターのフィードバックを利用したノイジーインプロビゼーションで、結構同じようなことをやっている人もいるのだが、何か彼を突き動かしている衝動が感じられて、単純にかっこいい。「ガセネタの荒野」で、バンド時代の演奏を表現した詩のような一節に、「僕らは終わり続けていた」「終わり続けていたから終わることができなかった」というような文があったが、これじゃ終われなかったのだろうな、そんなことを思わせた。年を取って枯れた何かでも、深化した技術でもない、青臭さを感じさせる演奏だった。

2次会は食事を囲みながらスピーチなどを聞きつつ、歓談、という内容。知人はいなかったので、なんとも話しかける気に何となくなれず、かといってさっさと帰る気にもなれず、ただその場の雰囲気を味わっていたという具合。大里さんの取ったという写真が置いてあったが、硬質な絵がとてもセンチメンタルで、存外に素晴らしい写真だった。生前試用していたギターやベースが売られていたが、フレットレスのプレシジョンベースやアコギなど、個性的な楽器だらけ。こういうところも、それらしいなと思う。

横国で行われていたゲストを呼んでの講義で、大友良英氏の回が会場にて上映されていたのだ。大里さんと大友さんの競演の様子も見られたのだが、大里氏の客席に背を向けつつギターをフィードバックさせるその演奏スタイルを見ていたら、自分はたしかこの演奏を見たんじゃなかったかと思い始めてしまった。本当にそんなことがあったのかは、未だにハッキリと思い出せないのだが、あの背中を向けて演奏する姿には絶対に憶えがある。自分のハッキリした記憶としては山本直樹さんの回だけだったのだが(あのときは大里さんに依頼されて山本さんの送迎を担当したので覚えている)。当時、大友さんの演奏をよく見に行っていたので、可能性はある。

追悼イベントはまだいくつか行われるらしいので、時間を作って行ってみようと思う。個人的には未見のAAを見てみたい。

大里俊晴氏の事

17日に、兄弟子であり、師でもあった大里俊晴さんが亡くなった。

私と大里さんの出会いは約10年前にさかのぼる。司法試験という道を目指して早稲田の法学部に入学したものの、退屈きわまりない法律の授業に辟易としていた私は、サークルでの音楽活動に耽溺し、あっという間に授業に出なくなった。

それが3年目の春、いわゆる大学生の間で言うところの4月病という奴だろうか、ふとこれではいかんとふと法学部にいながらにして、文学部のような授業を受講することを思いついて、人文系の授業(つまり一般教養だ)にたくさん登録した。

その中の一つにフランス語上級というものがあった。この授業は、広告でフランス語を習った者のみが必修となる科目で、実質的には早稲田学院の生徒のみが受講する授業で、私のような公立高校出身の人間は誰も受講していなかった。それを担当していたのが、私と大里さんの共通の師匠である、塚原史先生である。

その塚原先生からあるとき「僕の弟子みたいな奴がいるんだけどさ、法学部で音楽を教えてて、坂上(桂子)先生から聞いたんだけれど、君は結構音楽もやるんだろう? だったら出てみたらどうかな。変わった奴でなかなかおもしろいと思うよ」と言われた。そのときの私は、クラシックの中でも近現代の異端的な音楽に耽溺していて、そんなすごい先生でもないだろうと思い、その年の科目登録では登録をしなかった。

その翌年、私のおぼろげな記憶では科目登録の開始日を間違えたため、残った授業が余りなく、何かいい物はないかと探してみたところ、その音楽の授業でまだ定員が空いていることを掲示板で見つけた。掲示板にはこう書いていたはずだ。

「音楽美学 大里俊晴

とりあえず、残っている中で一番おもしろそうだと思った私は、その授業を受講することにした。それは、まだできたばかりだった教育学部の新教棟の視聴覚室だったと思う。真新しい建物に広い教室と音響設備。どのような授業が始まるのかと思い、そこに出てきたのは、黒の皮ジャンとサングラスの、黒ずくめの、お世辞にも講師とは見えない、ディスクユニオンか西新宿でブート漁りしてきた帰りとしか思えないような人だった。

今となっては授業の内容はおぼろげにしか覚えていない。それは人によっては、授業と呼べるようなものではなかったのかもしれない。様々な珍しい音楽や映像を流して、それがどうしてこんな事をしているのか、なんでそういうことをするのか、ということをあの饒舌な、でもどこか照れたような口調で話し始めた。

最初の授業が終ったとき、私は大里さんのファンになっていた。その内容は、下手をしたら単なる知識披露に陥る可能性もあったのかもしれないけれど、そうは感じなかったのは、きっと今を支配する何かに対する批判が底にあったと思うのだ。今思い出せと言われてもぱっとは出てこないが、覚えているのは、「ジャンプが一時500万部以上も売れていた世界というのは今考えれば異常なことだと思わないか?」「DVDのリージョンという考え方が気にくわない」といった話だ。個が収束して集団となったとき、それが一つの権力として作用する、そのにおいに敏感だったのだろうと、今となっては思う。

そういう批判精神、それも誰もが普通で当たり前だと受け入れるような者に対する、ひるむことのない言葉に、これこそが自分の行く道だと深く思ったのだ。それからは、大里さんについて回って、いろいろなことを聞いて回ったりした。

あるとき、大里さんがフランスからミュージシャンを呼ぶと授業で予告したことがある。フランスのプログレバンド、カタログのギタリストだったジャン・フランソワ・ポーブロスと、フリーのサックス奏者であるミッシェル・ドネダが来るという。場所は西荻窪だ。私は当然出かけた。

ハッキリとは覚えていないのだが、大里さんに頼まれたか、あるいはたまたまだったか、開演より少し早い時間に会場近くの古本喫茶で大里さんと会った。そこで言われたのが、「楽器を家から取ってくるので、ちょっとここにいてポーブロスが来たら大里はもう少し後で来ると言っといてくれないか」と言われたのであった。当時の私は全然フランス語なんてしゃべれないので、「フランス語しゃべれないんですけれど、どうしたらいいのですか」と聞いたら、たしか、どうにかなるとか英語でいいとか言われたはずだ。そして実際に、ポーブロスはやってきて、たどたどしい英語で「大里はもう少ししたら来る」と言ったと記憶している。

ライブは驚くほど狭い会場で、しかし拍子抜けするほど人がいなかった記憶がある。同じ授業に出ていた奴らはおそらくいなかったのではないか(後に『Choice & Place』という本を一緒に作った吉田大助君―今は演劇評論家らしい―はいたかもしれない)。ライブの内容はフリーインプロヴィゼーションそのものだった。大里さんはエレキベース口琴を演奏していた。ベースの演奏は当然ジャズでもロックでもない、ハードコアな演奏だったような気がするが、それだけではなかったように記憶している。今では、ちょうどデレク・ベイリーのような演奏だった気がする。ドネダはフランス人2〜3人と共に、ものすごく遅れてやってきたので、3人のアンサンブル(?)はほんの数曲だった気がする。

あるとき、大里さんが授業を休講するという。それは、フランスに関する本を書いてくれと言われているが、締め切りが間近だか過ぎているかだか、最近のフランス事情を知らないので、仕方がないからフランスに行くということだった。

ところが帰ってきて最初の授業で顛末を聞いたら、「レコード屋に行ったら、頭が真っ白になって、ついレコードを買いまくって、原稿は1文字も書かなかった。買いすぎたので来月カード破産する予定」ということだった。これには笑ったが、無事に本が出たところを見ると、おそらくは冗談も入っていたのだろうか。ともかく、大里さんは遅筆で有名で、原稿が遅いという話をちらほら聞いた。

だが、その遅筆というのも、ただ単に自己管理がなっていないというだけが理由ではないと、今にしてみれば思うのだ。大里さんは、集団の暴力というものに恐ろしく敏感な感性を持っていた。あくまで少数者であることを望み、誰もが当たり前だと思う陰でマイノリティを虐げる、多数者による善の暴力(透き通った悪、あるいは悪の透明性とでも言えようか)を糾弾する声を止めることはなかった。あくまで私の考えでしかないが、もしかすると大里さんからすると、メディアを使った批評というのも、ある種の暴力に感じられたのではなかったのでは無いだろうか。権力を批判する言葉がいつしか権力になってしまう瞬間。メディアにはそういう恐ろしいところがある。この私の殴り書きのような文章では、今はうまく説明出来ないが、どうもそういう居心地の悪さを大里さんはずっと感じていたような気がしている。

ネットにいくつか書かれた大里さんの同僚の方々の話では、とてもシャイな人だったという。なるほど、そうだったのかもしれないが、私にはなぜかとても気さくだった。会うといつもあの口調で、「ひさしぶりじゃ〜ん、最近なにやってんの?」と言って、最近の近況を報告したりするのだった。

そういえば、フレデリク・ジェフスキのコンサートを一緒に見に行った記憶がある。待ち合わせたのかたまたま会場で会ったのか。オペラシティの入り口で、「前にいるの、一柳慧だぜ!」と大里さんがささやいたのを覚えている。ジェフスキと高橋悠治のエピソードなどを聞いた気がする。ジェフスキは歯を磨かないので、エスキモーの音遊び(互いの口に息を吹きかけるらしい)をするとくさくてたまらない、とか。私も、マルク=アンドレ・アムランが、ジェフスキと会ったときお互い英語が話せることを知ってるのにずっと下手なフランス語で話しかけられたと言ってた、とか話したと思う。

横浜国立大学の大里さんの授業で、クリエイターを呼んでインタビューなどを行う授業を行っていたが(なんでも予算数回分でやっとインタビュイーへのギャラになるから数ヶ月に1回だとか言ってた)、それに漫画家の山本直樹さんを呼ぶというので、山本さんと親しくしていたので(今でも月1で飲んでるが)、横国までエスコートしてくれと言われたことがある。

エスコートして横国の大里研究室に入ってみると、それは果たしてCDと楽器の山だった。研究室と言うよりは、趣味が高じたオタクの倉庫のようだった。知らないCDも山のようにあったが、マイルスのアガパンみたいなメジャーなのもいくつかあったような記憶がある。そのときのインタビューの様子はネットでも読むことができる。
http://www.yamamotonaoki.com/report/ynu/index.html

考えてみれば、着るモノにこだわらず、冬でもサンダルと言う点で、大里さんと山本さんは非常によく似ていたような気がする。シャイなところもよく似ている。

大里さんと最後に会ったのは、もう2年前の12月になるだろうか。昔、私が潜ってでも出ていた一般教養に、教養演習だかというゼミ形式の授業ができて、そこで法学部のフランス系の講師が合同で忘年会をやるというので、塚原先生に誘われたのだった。在学中は面識の無かった谷昌親先生、塚原先生、それに大里さんがいた。他にもフランス人の人がいたが、卒業生の私には当時のカリキュラムは分からないので、それが誰だったかは分からない。他にも講師はいたと思う(坂上先生がいなくて、塚原先生が携帯で電話していた記憶がある)。

例によって、大里さんは「ひさしぶりじゃん〜今なにやってんの?」と、あの笑顔で迎えてくれた。ところが、ふと見ると大里さんがスパスパとタバコを吸っていたので、あれ?喫煙者だったっけと思い聞いて見ると

「ちがうんだよ、大学の教授会でさ、『研究室は国が君たちに貸し与えたものだから、喫煙なんてもってのほかだ』なんて権力に笠に着たような言い方をするからさ、頭に来て、その場で手を挙げて『俺、ずっとタバコ吸ってなかったんですけど、今日から喫煙者に戻ります』と言って、また吸い始めたんだよ。久々だから、ニコチンXXグラムから始めてんの(笑)」

素晴らしい。こんな事ができる助教授が、いや、こんな事が堂々とできる人間いったい世に何人いる?

その席で、「実は例の横国の授業で、藤井郷子を呼びたいと思っててさ、細谷君知らない?」と聞かれたので、師匠の南博さんが同じく宅孝二門下だったことを思い出し、南さんに聞いて見ると答えた。しかし、南さんは連絡先を知らなくて「ピットインで教えてくれんじゃない?」というのでピットインに聞いて見たら、迷ったあげく「個人情報だから」と言われて、住所でもいいからと言っても教えてもらえなかった。個人情報保護法なんて悪法だなと思った自分が、今は会社でPマーク更新を担当しているのだから、何とも皮肉なものである。

大里さんの具合が悪いことを知ったのは、Mixiでの野々村氏の日記からである。常々気にかけていたが、それからしばらく何も知らせを聞かなかったので、癌の様子は相当悪いらしいとは聞いていても、どうにかなったのではと思っていた。会いに行きたいとは思っていたが、体に負担になるのは避けようと、何もせずにいたある2009年11月の第1週のこと、ふとネットであれこれ検索してみると、大里さんの横国の授業の宣伝が出ているではないか。

ゲストは藤井郷子と田村夏樹。そう、私が連絡先を調べきれなかった、あの藤井郷子ではないか。これはいい機会だ、大里さんと会って話はできなくても、挨拶ぐらいはできるだろうと思った。日時は11月8日(土)とある。私はその日の日仏の授業を休んで、それに行くことに決めた。

ところが、出発前に、何号館でやるのかなと思い、再度ネットにあった告知を確認して見ると、なにか違和感を覚えた……そう、11月8日は土曜日ではなく日曜日ではないか。ハッと気がついた。これは2009年の話ではなく、2008年の話だったのだ。

大里さんが亡くなったのはそれから10日後のことだ。

文中で、「大里先生」ではなく「大里さん」として書いているが、これは、自分は生徒ではなく後輩でありたいからであって、決して悪意や馴れ馴れしい思いはないことを理解いただきたい。生前も度々大里さんと呼んでいた。兄弟子というのは、塚原先生が大里さんのことを弟子と呼び、また私のことも、「僕をしたってくれる奴が何人かいて、その人たちを弟子とか呼んでるんだけれど、君も僕の弟子になるね」と言われたことによるものだ。だが、まだ私は彼ら2人と比べられるような事を何一つ成し遂げていない。

語ることはまだまだあって、きっとそれは今はまとめきれないだろう。モノを書いたり編集をすることを生業としていたくせに、仕事以外で文章を書けない状態がずっと続いている。だから、書くのは後とさせて欲しい。だが、大里さんの書いたものをまとめることをやりたいと思っている。自分は出版社に所属していないので、それが可能かどうかはわかならないが、誰かが動き出さないと。通夜で出会った生徒たち(PILの帽子をかぶった彼と、新卒1年目の彼と)にもそう話した。それは私でなくてもいいのかもしれないが、ひょっとしたら、この世の関節が外れた音でも聞いてしまったのかもしれない。

2つの80年代の証言

一言にバブルと片付けられることが多い80年代。とはいえ、子供心にもあの頃は世の中全体が喧噪に包まれていたような気がしている。とはいえども、この2つの80年代を過ごした体験記は、そんなステレオタイプな80年代観とはあまりにもかけ離れている。

1つは、我が師匠、南博氏の『白鍵と黒鍵の間に〜ピアニスト・エレジー銀座編〜』である。ジャズにかぶれてしまったがために音楽高校を放り出された青年が、夜の銀座でピアノを弾き、やがてアメリカへ渡るまでを描いた自伝である。いわゆる青年が自己を確立するまでを描く立身出世物語(途中)であるが、それにしたって実体験で見たという銀座の一番コアな部分は、最近よく見るキャバ物語とはひと味もふた味も違う。おおよそ、普通に暮らしていてこのような世界がかいま見れることはほぼ皆無であろう。80年代の証言として、非常に興味深い。

こちらが金が飛び交い欲望の渦巻く、いかにもバブルらしいイメージの80年代だとしたら、もう一つの80年代はあまりにもかけ離れている。外山恒一氏の『青いムーブメント―まったく新しい80年代史』である。保守的な福岡の高校を退学した青年が、学生運動にのめり込んでいくまでを描いた、こちらも自伝である。80年代(自伝で書かれるのは正しくは80年代末〜90年代会前半)に学生運動などあったのか? というのがおおよそ一般の持つ感想だろうが、外山氏の語る80年代にはそれは確実に存在した。そして、70年代安保とおなじように、時代の空気に突き動かされた文化的、政治的な盛り上がりが、外山氏の青春と共にこの本に描かれている。左翼がみな天皇崩御によって右翼のテロに遭うと信じ切っていたという、あまりにも奇想天外な終末論の話は白眉である。

どちらも同じ80年代の中でもかなりエクストリームな話であるが、この時代でなければ起こりえなかった出来事であろう。経済史的に見れば80年代はバブルであり、それを中心に歴史が編纂されるのが表の日本史だろうが、両方共に裏の証言であることが興味深い。外山氏の言う80年代末〜90年代頭の運動=青いムーブメントは、青臭いものだったというが、同じぐらい南氏によって語られる銀座もダサイものだったように私には思えてならない。金がうなりを上げていても、最高級のクラブで演奏されるのはハワイアン崩れの音楽であり、オヤジやヤクザが慣れ親しむのは演歌であるのだ。そんな頃から考えると、いつからこれほどまでに世の中が目の色を変えて「本物」を求めるようになったのだろうか。

白鍵と黒鍵の間に―ピアニスト・エレジー銀座編

白鍵と黒鍵の間に―ピアニスト・エレジー銀座編

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

ウェブメディアへの幻想

私がまだ紙媒体の月刊誌を編集していた頃のことだ。ウェブメディアというのは、まだ海のものとも山のものともつかぬ物だった。当然、採算が取れようはずもなかったが、将来かならず伸びるという予想の下、さまざまな試行錯誤が続けられていた。

それから、何年か経って。ITMediaのように上場を果たす企業も出てくるなど、ウェブメディアは急速に金を稼げるものとなった。当初は「ページビューがあってもどこで金を取れるんだ?」といっていたものだが、視聴者から直接金を取らない民放が事業として成り立つのだから、ウェブが金にならないはずはなかった。しかし、その過程には実にさまざまなウェブメディアを巡る幻想があったものだった。否定的なモノも、肯定的なモノも、それらは誤解をはらんでいた。

既存メディアがウェブに食われてしまう、という言説がおそらくは最も代表的なものだ。これにもっとも執着していたのは新聞社だろう。ウェブも紙も、同じテキストと画像を扱うことから、新聞で載せているモノをウェブで載せることに抵抗感があったのだろう。だが、それも過去のモノとなった。そもそもウェブの読者と新聞の読者とは、別の層であることに気がついたのだろう。また、広告モデルで事業が成り行くようになったことも大きい。

もう一つ――それが今回の主題なのであるが――ウェブでは表現が広がるという幻想だ。

われわれ紙メディアの編集者は、限られた紙のスペースをどのように使うかに頭を悩ませる。レイアウトというレベルから、連載ページの奪い合いまで、文字数やスペースの制限と戦った経験の無い編集者はいない。そんな紙の人間からすると、ウェブは天国に見えたのだ。

ウェブでは文字の制限がない。個人のホームページには、実に偏執狂的につづられた長大な文章があふれているではないか。紙では短く切らざるを得なかった記事も、ウェブなら全てを収録することができる、と。ところがウェブで記事を書くようになって、これがなんとも牧歌的な幻想に過ぎないことを意識せざるを得なくなった。

ウェブでは長い記事など求められていなかったのだ。自分が読者になってみれば一目瞭然だが、モニターで長い文章を読むのはきつい。1行の文字数がぎっしりなモノは論外としても、縦にいつまでも続くような記事など誰も読みたくないのだ。ページ化がされたとしても、1ページ目で面白くなかったら、2ページ目など誰もクリックしない。

それに、ページ数もウェブでは5ページ以上は長いのだ。小説なら100ページくらい当たり前でも、ウェブでは10ページすら許容されない。個人ページなら読みたい奴だけが読めばいいで開き直れるが、商業サイトでは読者に読まれない記事は存在しないのと同じだ。

結局、ウェブで求められているのは、ページ数が少なくて、軽く読めて、それでいて少し扇情的な見出しが付けられていてついクリックしたくなってしまうような話題がほとんどなのだ。そもそもウェブサーフィンなんて呼んでいたものが、ザッピングそのものだったことからも明らかだったのだが。

だから、長文になりそうなコアなネタは、なかなか記事になりにくい。ページが多くてもウェブは紙代がかからないじゃないかと思っていても、視聴率の悪い記事はやはり紙代と同じように足かせとなる。紙の部数のようにいい加減なモノと違い、アクセス数が可視化されてしまう以上、ウェブの方がもっとシビアかも知れない。

もちろん、ウェブには紙にない可能性はある。動画の挿入やトラックバックなど、そのいくつかは発見されているとおりだ。紙には紙の、ウェブにはウェブの制限がある、ただそれだけのことだと最近は冷静に思えるようになった。

だが、たとえばとあるプログラミングの開発環境についてぎっしり分析した記事であるとか、不景気の紙媒体から取りこぼれた、コアな記事は一体どこに行けばいいのかという思いはある。かつての紙媒体が持っていたそういう偏執狂的な魅力は、今のウェブメディアには承継されていないように私には思うのだ。

Kilchoman(キルホーマン)

大分詳しくなったと思っていても、それでも知らないことがあるのが世の中である。というのは、昨日飲んだシングルモルトのKilchoman(キルホーマン)である。

何気なく近所のバーのカウンターに置いてあって、スコッチみたいだけどシングルモルトなのかブレンドなのかもはっきりせず、もしかしたらバーボン? と思っていたのがキルホーマンであった。うっかり写真を撮ることを失念してしまったのが惜しいが、味は写真で捉え切れるものではないと言い訳しておこう。

キルホーマンは、昔につぶれた蒸留所名を冠するという良くあるパターンとは違う全く新しいアイラ島の蒸留所で、なんでも操業してまだ数年とのこと。たまたまそのバーのチーフ格のバーテンダーがそこを訪れたことがあって、なんでも農場の片手間にやっているような、非常に小規模の蒸留所だという。ポットスチルも小さければ、規模も小さい。とても親切な良い蒸留所だったとか。

ところで操業数年とはどういう事?一体ヴィンテージは? と聞いてみたところ、なんとわずかバーボン樽に6カ月という超短期熟成。それではさぞかしアルコールっぽいで有ろうと予想して飲んでみると、これが驚き。うまいのである。

強いピート感は以前出回っていたラフロイグ6年やアードベックのヤングシリーズを思い起こさせる。それでいてしっかりとした甘みが感じられ、今飲んでもアイラ好きを十分満足させるものがあった。ただし、カスクであれだけ荒々しいので、繊細な味を求める向きには向かないだろう。個人的にはラフロイグに近いニュアンスを感じ、もう少し熟成したらかなりうまい酒になるのではないかと思った。

なんでも今回は日本のインポーターがキルホーマンに強く申し入れて、日本限定で200本ほどを回したという。第一弾は即完売、第二弾が初夏に出回るらしいが、おそらくはバー関係に回って終わってしまうであろうとのこと。熟成したものが世に出回るとき、どのような評価を得るのであろうか。非常に楽しみである。