『グリーンマイル』

重いテーマを扱う作品は、どんなに取り繕おうとも作者の価値観や善悪観というものが反映されずにはいられないものである。というのは、先週の土曜日にテレビで放映されていた映画『グリーンマイル』である。何の気もなしに、テレビで放送していたものを途中から見たが、おそらくは作者が期待していただろう形では感動を得ることができなかった。

前半のストーリーは隣にいた人から聞いた。なんでも感動的な物語であるらしいのだが、自分には多層的なテーマがうまく消化されず、いささかとまどいを憶える内容だった。

人種差別的な地域で無罪の黒人が故無くして死刑に処せられる、レイシズムがテーマなのか? それともその黒人死刑囚が持つ不思議な癒しの力がテーマなのか? 人間の醜さ罪深さがテーマなのか? おそらくそれらが合わさった多層的なテーマであるのだろうが、単純に涙を流し人間の愚かさがテーマである云々という人は、きっと霊験あらたかな壺を購入する危険性があるような気がしてならない。

なぜならば、冒頭にも書いたとおり、どうしてもこういう映画には宗教的な価値観やら、罪と罰に関する制作者の善悪観が見え隠れしてしまうからである。無実の黒人死刑囚は、その不思議な力で人を救うと同時に、死刑囚虐待を行っているサディスティックな看守を操り、事件の真犯人たる殺人鬼を射殺させる。ここで透けて見えるのは、この不思議な力を持った黒人死刑囚を突き動かす神=脚本家あるいは作者スティーブン・キングの善悪観である。

罪と罰、その意義や定義は常に議論の的であり、本当の立法意志とは関係なくそれを考える人それぞれの中にあるものとも言える。刑の執行は法で決まった正義を実行すること自体にある(=法の権威を維持するため)、あるいは、被害者の処罰感情を充足し理不尽な行為を刑によって処罰するため(=応報としての処罰)、刑の執行を見せしめることで罪に対する処罰の大きさを知らしめ、犯行を押さえる(=犯罪への抑止力としての処罰)などなど、いくらでも論は出てくるし、実際のところ法哲学という学問はこのようなことをメインフィールドとしている。

さて、我らが癒しの力を持つ黒人死刑囚(=神の使わしたもの、と看守達が信じる男)が、私刑的に真犯人を殺害させるというのは、何を意味するのか。彼は死に値する罪人だったかも知れない、しかし、それは何者の判断によるべきだったのか。それを黒人死刑囚による行為を当然のものと見るならば、それは非常に宗教的な(=権威的な)もののように思えてくる。極言するなれば、それは感情によっての裁きとすら言えるだろう。

だがこの殺人鬼はともかくとして、操られたサディスティックな看守はどうだろう。精神を崩壊させられ、自分をも認識できない精神障害者として精神病院に幽閉されてしまうほどの罪だったのだろうか(前半部分を見ていないのでハッキリとは分からないのだが……)。このように2人の男を、死に至らしめる(肉体が死んだのは1人だが、もう1人は精神が死んだ)というのは、法の裁きよりも宗教的な(情緒的な)裁きが優先すると言うことだろうか。

ここに、いささかアメリカという社会の精神性が見えてくるような気がしてくる。この映画は湾岸戦争後、9/11前であるが、すでに情緒だけで他国に攻め込めるアメリカの精神的萌芽が見て取れるかのようだ。そんな引っかかりがどうしても素直に感動できない要因になってしまった。そして素直に、人間の世は醜い争いだと思う人は、現代のアメリカと同じ情緒の言語を話す人々ではと思い、その言葉に素直に頷けないのだ。

「M/D」その2

 さてこの「M/D」を恐らく編集していたであろう時期に、菊地・大谷コンビは非常に興味深い作品を仕上げている。Naruyoshi Kikuchi Dub Sextet 「The revolution will not be computerized」と大谷能生・門松宏明「大谷能生フランス革命」である。奇しくも二人ともタイトルに革命(Revolution)を付けたのは、単なる偶然であったとしても、全くの因果関係が無かったわけではあるまい。なぜならば、この「M/D」においても、「革命」がキータームとなるからだ。

 マイルスの生涯を音楽的業績を、彼が常に前進を続けて過去を振り返らなかったとして、革命的であるとする論調は、決して少なくはない。確かに彼が音楽界に多大なる影響を与えたことは衆目一致するところだろう。だが、菊地・大谷はマイルスが革命を起こしたという論調には賛同しない。マイルスが行ったのは、革命ではなくモードチェンジの連続だった、というのだ。

 確かにマイルスの音楽的発展をつぶさに見るからに、電化は遅すぎるくらいのタイミングであったし、モード奏法がジャズ界を一変するほどの威力を持っていたかというと、フリージャズほどのことはなかっただろう。(途中)

「M/D」その1

 本来、人の生涯というものは善悪の評価が簡単に付けられないことの連続だというのに、「肯定的に書いた伝記」「否定的に書いた伝記」というものがあるのは、伝記の著者はその人物の生涯から何かを取り出さずにはいられないということの証拠といえるのではないだろうか。そして、大にしてそれは著者自身の顔を写す鏡だったりするのだ。……というのは、菊地成孔大谷能生著の「M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究」のことである。

 この本は、マイルスの生涯を年を追って見ていく形式であるが、あくまでタイトルが著すとおり「研究」であって「伝記」ではない。「研究」と言うタイトルになったのは、そもそも東京大学で行われた講義録を出版するはずが、菊地成孔氏の追記によって施された、この言い回しを実際の講義でやっていたとしたら天才もしくはキチガイの所行にちがいない、というほどの装飾過多な文体によって増えすぎた内容のためだろう。その文体故に多少の読みにくさを感じざるを得ない部分もあったが、それでもなおこの本は「研究」というには「面白すぎ」だ。

 カッコ書きにしたのはアイロニーではない。「研究」という言葉がまとう、学術的な書式を遙かに踏み越えて、ある意味で主観が横溢する内容になっているからだ。そのために、厳密な学者肌の人から見たら幾分客観性を欠いた内容に見えるかも知れないが、客観性はこの本の意図するところではないだろう。そもそもマイルスの自叙伝や他の伝記を底本として、その生涯の功績を検討するというこの本の態度は、オルタナティブな方向性を提示するという行為に他ならないからである。その内容が事実かどうかをフィールドワークによって検討することは最初からテーマではなかった。いわば、古典的な意味での博物学と言っていいかも知れない。

 さて、最初に書いたように、伝記を書く人間がその題材とする人間から何を見出すか。それはそのままその著者の鏡像といえるのではないだろうか。菊地氏(と言い切ってしまう)がマイルスに見出した、アンビバレンス性や、生まれながらに持っていた品の良さ、革命ではなくモードチェンジを続けていただけ、というテーゼ。それらは全て菊地氏にも見いだせるような気がしなくもないのだ……。

 という些末な感想は、この本を読んで思ったことの一部でしかない。啓発性に富んだこの本の感想を、何日かにわけて書いていこうかと思う。

ビジュアル系とヤンキー

「ヤンキーとファンシーは日本の心である」とは故ナンシー関の名言であるが、日本文化のメインストリームにはこの2つの要素が色濃く刷り込まれていることを実感せざるにはいられなかった。……というのはX JapanのHideを追悼するイベント「Hide Memorial Summit」である。私はこの様子をwowowで見たのだが、その横溢するヤンキー臭、そしてドメスティックぶりには唸らされた。

たとえば、YoshikiなりToshiが絶叫する言葉。「てめぇら最高だぜー」「腹から声を出せー」とか。これはそのまま特攻服を着たニイチャンたちが叫んでも全く違和感がない。風になびく旗指物は、暴走族の旗以外の物に見えるか? 菊地成孔氏いわく、「ヘヴィメタルは大音量のベートーベン」だそうであるが、ヴィジュアル系の音は西洋クラシックよりもむしろ、そのダサかっこいいメロディは演歌を思わせる。終いにはギターを床に打ち付けて破壊する様も、まるで田を耕す農民のように見えてきてしまった。

……などという馬鹿なことを考えてしまったが、それにしても、私の周りには当時はXに全く興味がなかったのが、復活コンサートでなぜか興味が湧いた(あるいはまぁ許せるかなという気になった)という周回遅れの人間が少なからずいる。これはどういうことだろうか、非常に興味深い現象である。

再開

ものすごい久しぶりになるのだが、はてなダイアリーを再開させようと思った。結局、mixiは書かない(書けない)状況になってしまったし、独自ドメインで自分のサイト作っても放置する期間が長かったりで金が無駄になったりで、結局こういう無料サービスで細々とやるのが良いのではないかという結論。

Gyorgy Lighei Edition 3: Works for Piano , Pierre-Laurent Aimard(pf)

いまさらの超定番CDを、今更買う。私とリゲティとの出会いはそもそも10年ほど前にさかのぼり、それは安売りしていた「Capriccio」の楽譜だった。弾いてはみたものの、さほどのうまみも感じられず、著名な作曲家であることも認識しながらも、それ以上の興味はわかなかった。まあ、当時も有名だったのであろうが、その後、もっともっと有名になったのがリゲティだ。俗世間から離れ変化の少ないように思えるクラシック音楽界にも、ちゃんと流行という物も存在するのだ。さて、その10年の時を経て、きちんとした弾き手によって演奏されたリゲティ作品を聞くと、ものすごく不思議な感慨が訪れた。エチュードはおそらくは近年に作曲されたピアノエチュードの中でも、最もおもしろい構造で書かれた作品であるのだが、その構造を意図せずして聞いても十分に楽しい。だが、気が付くと構造を意識してしまう。そのときに訪れる快楽とはなんなのか。それはおそらくは快楽というよりは幾分難渋なものであり、パズルを解くかのようなものだ。おそらく楽譜を前にしながら聞くのが最高の楽しみかたなのだろう。つまり、楽譜の持っていない私のような人間には聞き込みが必要なのだ。